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崩れかけのアイスクリーム

午後二時十三分。太陽は天高く昇っている。入り込む日光はアホみたいに多くはないけど、季節は夏。それも夏の中の夏。扇風機しかない家の中の気温は高いことこの上ない。朝の天気予報でもここ数年で一番の暑さになるでしょう、なんて言ってた気がする。何だよここ数年で一番って、毎年言ってるだろ。しかも毎年異常だ異常だって騒ぎ立てる。もう異常じゃない、平常だ。懲りずに同じ時期に同じこと言うだとか、毎日毎日同じニュースを延々読み上げるだとか。メディアは繰り返しが好きらしい。進歩が嫌いなんだな、変わった奴らだ。

「ちょっと一緒に外行こう」
リビングのソファで寝そべりながら扇風機に当たるだらしない弟の腕をひっ摑んだ。
「嫌だ、外すげー暑いし。てか兄貴はその歳で弟と一緒に出かけるとか恥ずかしくないのかよ、高校生と中学生とか。今時小学生でもやらないだろ」
何言ってんだこいつ。暑いから外に出たくない? 暑いから楽しいんだろ。暑いとテンションは高くなるし、脳みそがどろどろになっていって何もかもどうでもよくなる。そこがいい、だから俺は暑いの大好きだ。
あと寒いのだって大好き。息の根が止まるくらいの冷たさはそのうち感覚を消していく。寒くもないし暑くもない。寧ろ最上級の快適さになる。
それを知らずに暑いだの寒いだの文句ばかり言う連中は損をしている。そんなに快適になりたいなら死んじゃえばいいのに。何も感じないし何にも縛られない。自然現象に文句ばかり言う奴らは生きてるのに向いてないから、さっさと生きるのをやめればいい。
「ほら、行くぞ」
うだうだ言う弟の腕を離さないでそのまま外へと引きずり出した。

外の気温で何もかもが溶けていく。脳みそも髪の毛も爪も。俺だけじゃない、草も木も石も水もみーんな溶けていく。このまま全部が溶け合って一つになっちゃえばまさに世界は一つ、世界平和の完成。
ああ、それなのに弟は暑い暑いとうるさい。生きてるのに向いてないだろうけど、まあ人には好みがあるか。暑いのがそんなに嫌ならつめたーい水風呂にずっと入ってろよ。感覚がなくなって暑さも寒さも分からなくなる。そうしたらもう何にも困らない、俺って天才!
「少しでいいから涼しくなりたい。木陰に入るとか何かで仰ぐとかでもいいから」
我儘だな、少しは我慢することを覚えろよ。お前はもう中学生だろ、何も考えずに遊び呆けてる小学生じゃないんだから。それともまた小学生に戻りたいのか。お前はもう小学生みたいなガキじゃないんだよ、俺が戻れないようにしたんだから。大人なんだからそれらしく振る舞えよ。
あー、分かった分かった。うるさい。仕方ない、どうしようか。うーん。今いる公園に噴水はないし、近くに川も冷凍倉庫もない。あったら投げ込んでやったんだけど。家の周りもう少し便利になればいいのに。扇ぐものも無いしどうするかなあ。
「お、いいの見っけ」
公園内でアイスクリームの販売をしているワゴンを見つけた。あれなら手っ取り早く氷点下の世界に行ける。
「アイス買ってきてやる、何味がいい? 優しい兄がお前のために奢るから」
「優しいとか言えるのかよ。あー、睨むなよ、……じゃバニラ」
「じゃあちゃんと待ってろ、どっか行くなよ。そこのベンチで座ってろ」
あの直射日光が最高に降り注ぐベンチな。

「いらっしゃいませ〜」
貼り付けた笑顔で店員の女性がお決まりの台詞を言う。この人、きっと迷惑な客とか仕事で上手くいかないこととか抱えてんだろうな。
迷惑な客からは理不尽な言葉の暴力で殴られる。そのせいで気分が落ち込み、仕事帰りには足を滑らせ水たまりへダイブする。お気に入りの服は泥水で汚れる。家へ帰っても誰も声をかけてはくれず、食事も風呂の用意も何もない。自分の状況が悲しくなって、玄関に座り込んで静かに泣く。そこに昔に付き合っていた彼氏が急に部屋にやってくる。その彼氏がやっぱりお前を忘れられないって言って、玄関でそのまま無理矢理犯されたんだ。そして今、中絶の為にお金を稼がなきゃいけないんだろう。俺には分かる。
こうやって他人に綺麗なくらいの笑顔を向けられる人なんてそんなもんだ。一から百まで作り物を見せつけないとやってられないんだろうな、社会は非情だ。
「バニラ一つください」
「味の濃厚なゴールドバニラもございますが、いかがいたしますか?」
濃いってことは味がどろっとしてるってことか。それいいな。それにしよう。

アイスは甘い、それは大人から子どもまで周知の事実。よく「冷たくて甘くて美味しい」なんて感想を聞くが、それは冷たいからあの甘さだ。一度常温で溶けたアイスを食べてみればすぐ分かる、気持ちの悪い甘さだ。それだけ大量の砂糖が投入されている証拠。アイスを食うのも、アイスと同じ量の砂糖を食うのも同じ。砂糖そのままの方が安上がりじゃねえかな。そんな砂糖まみれのアイスはうっかり手につけた時が最悪。べったべたで腹が立つ、弟を一発殴ってやりたいくらいに。
「買ってきたぞ」
「ん、兄貴はいいのかよ」
俺は別に食べたいとは思ってないし。俺は暑いの大好きだから、わざわざ自分から冷やすなんてことはしない。だって馬鹿みたい、いや馬鹿だろ。夏を楽しむ! とか抜かす奴らは楽しむと言いつつ、暑い暑いと文句ばかり。クーラーの効いた屋内に逃げ込み、そこで気取って飲み物やお菓子を食べながらただくっちゃべるだけ。外で動く奴らもすぐ影に逃げ込む。何が夏を楽しむだ。それにそう言う奴らに限って冬になると寒さを嫌がる。しかも冬を楽しむとか抜かす。全部好きになった方が楽しめるし勝ち組だ、そうしたら全部どうでも良くなるんだ。
「じゃあさっさと食べろ」
コーンに乗ったままのアイスを弟の口の前に突き出す。俺の予定狂わせたんだからさっさと食えよ。
……何、その目。暑いんだろ、嫌なんだろ、食べろよ、せっかくの冷たさがぬるくなるぞ。中途半端なんて許さない、一番気分が悪くて腹が立つ。早くしろ、ぬるくなったら嫌だ。変な目しないでさっさと食べろ、食べろよ、食えよ。腹立つ、殴っていい?
「兄貴、アイス渡してくれよ。自分で持って食う」
「買ってきてやったんだから俺の言うこと聞け。このまま食べろって言ってんの、溶けたら勿体ないぞ。一滴も無駄にするな。少ない金出して買ったんだ、地面に少しでも落ちたら這いつくばってでも食え。食べ物に失礼だからな」
「家の中ならまだしも、ここ公共の場! 気持ち悪いに決まってるだろ、中学生と高校生の兄弟がそんなこと!」
偉そうに何言ってんのこいつ。お前が涼しくなりたいって我儘言うから、俺がこうしてお前のためにアイス買ってきてやったんだ。それなのにまだ我儘通す訳? もういい、食わないならこうする。
「い……、うえっ、何すんだよ!」
何って、アイス顔面に押し付けただけ。溶けかかってたみたいだしこれで食べやすくなっただろ、感謝しろよ。顔についたのは指で取って、全部舐めきれ。
「待っててやるから、全部食えよ」
俺って本当に優しい兄。我儘を言う弟の為にアイスを買って、それを食べやすいようにしてあげる。自然と笑顔にもなる。最高の笑顔だ。
それなのにお前は何でそんな怖がってるみたいな顔してんだよ。最高の笑顔が目の前にあるのに。まさか本当に怖いとでも? 怖がる要素なんてどこにあるんだか。いいからちゃーんと舐めなさい。

漸く舐め終わったか。十五分もかかりやがって、トロくさい奴。十五分もあればアスファルトの上を裸足で歩いて夏を感じられたのに。でもまあ、これで涼しくなったな。俺のおかげ。
「顔、洗いたい。どっかに水道あるよな、ちょっと行ってくる」
「だーめーだ」
「ぐえ……」
立ち上がろうとしたから、襟を思い切り引っ張ってもう一度座らせる。
「お前の礼を聞いてない、言いなさい」
「先にべたべたしてるの洗いたいんだよ、離してくれ」
「礼、言いなさい」
「戻ってきたらちゃんと言うから」
「言え」
思いのほか低い声が出た。親しき仲にも礼儀あり、だ。家族でもしっかりしないとな。
「う、あ……、ありがと、う」
うん、いい子いい子。頭をわしゃわしゃ撫でてやる。抵抗する手はひとまとめにして片手で掴み、動かせないようにしてやる。俺が撫でてるのに抵抗するなんてなあ。そんな手とか腕はお前には要らないだろ。今度折っちゃおうか、いやそれとも切り落とした方がいいかな。折っても治るし。
「てか、暑いって言うならその長袖のパーカーと長ズボンやめろよ。暑いとか言うくせに何着てんの、馬鹿」
「なっ、兄貴が! 兄貴が俺の腕とか足強く掴むからっ、爪食い込んで傷になったんだろ! 傷と包帯ばっかなの見られたくないんだ! 腹だって痣だらけなんだよ!」
うるさい、から一発右頬を全力で殴ってやった。公共の場だろ、騒ぐな。しかもこんなので倒れてベンチから落ちるなんて、泣いてんの? 弱い奴。あ、口の中切れたのか。頰も少し腫れてるし。家で手当てしてあげるから。……立てないの? 手のかかる奴だなあ。胸倉掴んで無理矢理立たせて、背負ってやる。
「ああ、暴れたら車道に放るから」
俺の肩を掴む手が少し強くなった。震えてる? 可愛いなあ。大丈夫大丈夫、大人しくしてれば落としたりしない。そもそも弟なんだから兄がおんぶして当然だろ。
午後四時五七分。気づいたらアイスクリーム販売のワゴンはいなくなっていた。

お前のことは大切に決まってる、俺の可愛い可愛い弟なんだもん!

*****

「よーし、手当て終わり」
「……さんきゅ」
手当てされた頰を触りながら呟いた。自分で手当てくらい出来るのに。これ、絶対酷いことになってる。変な痕にならなきゃいいけど。両親とか他人に何か言われたらどう言い訳しようか。
考える体力もない、疲れた。横になろう。パーカーを脱ぎ捨ててベッドに飛び込む。空はオレンジ色、窓から入り込む風は昼間より涼しくて気持ちいい。視界に入る俺の腕にはいたるところに包帯が巻かれている。爪が食い込んだのだけじゃない、カッターで結構深くまで切られたものもある。包帯がなくても赤い筋はまだ残ってる。
兄貴が俺のことを嫌ってるとは思ってない、寧ろあの様子としては好きな部類に入る。だから殴る、蹴るといった行為には俺のことが憎いとかの悪意は全く感じられない。そうじゃなかったら俺の傷の手当てなんてするはずがない。傷の手当てはするけど、可哀想とかすまないとは微塵も思ってはないだろうけど。

兄貴は狂ってる。その狂ってるところを俺以外には見せない。他人は勿論、親にだって。前にどうして俺以外には手を出さないのか聞いたことがある。
「だって他の奴らなんて興味ないし」
さも当然のように、いや兄貴には当然なんだ。さらっと無表情で言った。興味がない相手には腹が立つこと自体ないから、簡単にやっていけるらしい。その交流の上手さに加え勉強も出来る、問題も起こさない。そんな人だから、この傷たちが兄貴のせいだと訴えたところで信じられる訳がないだろう。傷そのものへの心配はしてくれても、兄貴のせいだとは誰も信じない。だから俺は一度も人に助けを求めたことはない。
昔は俺だって抵抗してきた、それはもう思いっきり。でもその度に俺のプライドだとか尊厳と呼ばれるものがぐしゃぐしゃにされてきた。暴れようにも兄貴の方が力は強くて押さえ込まれるし、叫ぼうとすればガムテープで口は塞がれる。他人に知られたくないから塞ぐんじゃなくて、ただ「うるさいから」塞ぐ。そうして暴行されて痕が残っていく。顔、腕、背中、腹。下半身だって傷だらけだ。抵抗しないのが一番なことは分かっているけど、俺にだってまだ僅かにプライドは残っている。それくらいは守り抜きたいけど、正直いつまで耐えられるかは分からない。

「おーい、風呂入ろうぜー」
何歳だと思ってるんだ、もうそんな年齢じゃない。男二人が仲良く一緒に風呂に入る? 気持ち悪いことこの上ない。
「ほら、入るぞー」
首根っこを容赦なく掴まれ、そのまま風呂場へと引きずられる。痛ぇんだよ、ベッドからも落ちるし引きずられて痛いし。待て、おい、何服脱がせてんだ笑顔で。待てって、待てよ。しかも包帯まで解いてやがる、本気だ、こいつ本気だ。本気で一緒に風呂入る気だ、冗談とかじゃない。
「はい立って。入るか!」
脇に手を入れられて立たされる。俺のこと何歳だと思ってるんだ。中学生だからしっかりしろとか言ってたくせに、何で子ども扱いしてくるんだよ。何なんだよ、あんたのしっかりしろって。
「俺、一人で入りたいんだけど」
兄貴の笑顔を認識した瞬間腹を殴られた、鳩尾に入ったな。疲れ切った身体にそのダメージは大きすぎた。
無邪気な顔をした兄貴の顔を見ながら意識を飛ばした。俺、そのうち死ぬんじゃないかな。

兄貴の感覚は狂ってる通り越して壊れかかってんだ。それこそ、今日押し付けられた溶けかけのアイスクリームみたいに。

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